有川浩『図書館内乱』

図書館内乱

図書館内乱

 全部で五章からなる長編作品で、最終章を除く四つの章は前作『図書館戦争』に登場した主要人物を掘り下げるのに費やされている。一章では主人公の郁の家族関係、二章では郁の上司・小牧の恋愛を中心とした周辺環境、三章は郁の同僚・柴崎の恋愛事情、四章はやはり郁の同僚・手塚の家庭――特に兄との問題、といったように。各章はそれぞれ独自のエピソードとして読むことも可能だが、大なり小なり最後の第五章へとつながる何らかの要素が絡められている。その第五章では本世界における図書館問題が掘り下げられていく。と、同時に郁に並ぶもう一人の主人公といえる堂上と郁自身の関係にもスポットがあてられる。ここで読者は二人の関係が深まっていくさまをニヤニヤしながら読み進めて行くことになるであろう。各登場人物の個性についての理解は、前作よりも相当深まるであろう。一方で言論統制とそれに抗う図書館、という作品背景についてはまだまだ解決が見えてこないので、次作に注目だ。
 以下は本書におけるあるエピソードに関する個人的な感情。ネタバレ気味であること、そして作品及び作者とは関係ないことなのでたたみます。
 作中で、ある人物が図書館サイトで書評を連載する場面がある。その書評の内容は過激な毒舌で書かれている。そして過激にした方が注目を浴びるだろうから、といった思惑からそのようなスタンスが取られているのだった。当然批判も多いのだが、結局「図書館のサイトで特定の本を批判するのは公平はない」という理由でそのコーナーは閉鎖された。
 私個人的には、図書館サイトだろうが個人サイトだろうが、この手の批評は大嫌いだ。毒舌・批判がまずいというわけではない。「アクセスを稼ぎたいから」という理由で過激な書き方を選ぶ、といった姿勢が気に食わないのだ。どのような作品であれ優れた点・至らぬ点があるわけで、長所を汲み上げるか短所をあげつらうか、そしてそれらを理性的に論ずるか感情的に煽るか、読書サイトのありかたは多彩にありえる。
 では、必要に駆られて勉強として本を読むのではなく、あくまで趣味の読書を想定した場合、読者はどのようなことを望むか。やはり作品を楽しみたい、というのが何はさておき第一義であろう。少なくとも私は楽しむために読書をしているし、したがって作品の楽しさ・読書の楽しさを伝えてくれるサイトを好ましく思う。
 むろん、どのような作品であれ短所は存在するし、それが看過できぬものであれば指摘するのもありだ。しかし、何をすき好んで当たり構わず毒を吐くレビューを読まねばならないのだろう。
 歯に衣着せぬものいいがかっこいい、何となくそう思われる風潮はあるが個人的にそれには首肯出来ない。それがアクセス稼ぎ前提であればなおさらだ。素直に作品を楽しめない読者・そして作品を楽しむことを阻害するサイトなど見たくもない。
 それに派生して、評判のよい作品を皆が褒めているから自分だけは貶しておこう、というようなスタイルも気に食わない。自分がいいと思えば褒める、まずい部分は貶す。それだけでいいはずで、周囲を気にする必要はない。
 逆に、アフィリエイト狙いで褒め倒しもどうかと思うが、短所よりも長所に注目しているという、ただその一点をもって毒舌系サイトよりははるかにましだ。
 いずれにしろ、アクセス稼ぎやブクマ稼ぎの目的で感想・書評を捻じ曲げるという行為は極めて不自然かつ不健全で、そのような書き手の感想・書評は信頼できないものであろう。

 ……さすがにそこまで極端なサイトはないだろうし、以上の物言いは見えない敵と戦っているのと等しいのだが、あくまで私の読書に対するこだわりとして記しておく。
 お眼汚し失礼。