吉川英治『宮本武蔵』

宮本武蔵 全8冊   吉川英治歴史時代文庫

宮本武蔵 全8冊 吉川英治歴史時代文庫

 8冊まとめて。今では井上雄彦によって漫画化された『バガボンド』の方が知名度が高いかもしれないが、本来の原作もそもそも「国民作家」吉川英治の代表作の一つとして非常に名高い。剣豪・宮本武蔵の剣士としての生涯を記した大作で、主人公の武蔵のみならず又八やお通、お杉婆、そして佐々木小次郎といった武蔵を取り巻く面々の生き様が武蔵と対比するような形で描かれている。時代柄、勧善懲悪の強すぎるきらいはあるものの、間違いなく名作である。
 剣士として小次郎と武蔵の違い、あるいは男として又八と武蔵の違いから浮かび上がってくる武蔵像に思いを馳せるもよし、お通とのすれ違いのメロドラマにハラハラするもよし、まずは読んでみようじゃないか。

 ということで本書そのものの魅力はいたずらに筆を費やすより「読むべし」の一言で済ませるのが一番説得力があるように思えるのでここまで。ここからは『バガボンド』との違いを探ることによって井上雄彦という希代の実力派漫画家が何を表現しようとしているのか、を明らかにしたい。
 「週刊モーニング」連載中の現時点で物語は武蔵VS吉岡伝七郎戦の途中である。ここまでで『バガボンド』が原作と異なる点は大まかに以下の通り。

  1. 原作に(ほとんど名前のみだが)登場する姉や武蔵の親族が登場しない。
  2. 原作では宮本村出奔後、池田輝政のもとで学問に励むエピソードがあるが、省略されている。
  3. 原作の佐々木小次郎は唖ではない。
  4. 原作には描かれていない小次郎の生い立ちが創作されている。
  5. 原作の吉岡兄弟の剣技はたいしたものではない。
  6. 原作では宝蔵院胤舜とは戦わない。
  7. 原作では明らかにされている城太郎の父のエピソードが語られていない(あるいは省略された)
  8. 原作では宍戸梅軒と戦うのは吉岡一門の後だが、先になっている。

 大まかにこれだけの違いがある。これらから導き出される結論は明白だ。井上は剣士としての武蔵にのみ焦点を合わせて『バガボンド』を書いている。
 1、2で人間関係を簡素化し、あるいは戦いに関係ない部分を省くことによって剣士としての輪郭をより明確にさせ、3、4で最大のライバルの魅力を描写している。なお、その魅力は言葉で費やすものではない。喋れない小次郎は剣によって自己主張するしかない。また、小次郎以前の最大のライバル吉岡兄弟を5、のように卑小化するわけにもいかず、剣士としてそれなりの実力の持ち主として設定している。そしてそれだけの存在感を与えたために8、のような戦闘順番の転倒という演出をとることとなった。なお、剣士としての武蔵像を明確にするためには胤舜との戦闘は避け得ないものとなった。7、は武蔵の関わる人間のエピソードに関するもので、演出意図としては1、2と同様のものだ。

 今後もこの線でストーリーが展開するとするなら、『バガボンド』は中盤のクライマックスをもうすぐ通り過ぎ、終盤の小次郎戦まであと少し、という地点に差し掛かっていることとなる。原作と照らし合わせると、残るバトルは夢想権之介*1ぐらいのものだからだ。もちろん、物語上にはそれ以外の人間ドラマが存在し、それらがきっちり描かれるのであればまだまだ山はある。あくまで剣士としての戦闘シーンに限ってのものだ。

*1:なお、この人物は司馬遼太郎『真説宮本武蔵』で非常に魅力的な人物として描かれている。