アリオッチかアリオッホか

 『エルリック・サーガ』シリーズの新訳刊行に関して、剣の守護者Ariochの邦訳名がアリオッチからアリオッホに変わったことが一部で話題になっているようだ。外国語の固有名詞を日本語、すなわちカタカナ表記にする際にどうするか、という問題だ。これに関していくつか思いついた事例があるので以下に記す。


Danzigという競走馬がいた。日本ではダンチヒあるいはダンジグと呼ばれる。馬名の由来はポーランドの都市名でそれに倣った場合ダンチヒと呼ばれる。そもそも地名なのだからそこで呼ばれている発音に即したほうがよいという考え方だ。しかし、この馬はアメリカ生まれでレースで走った国もアメリカだ。それならば、馬自身の祖国の発音ダンジグで呼ぶのが相応しかろう、という考え方もある。このケースはどちらが正解というものはなく、人によってダンチヒともダンジグともなりうる。

田中芳樹の『アルスラーン』戦記の主要キャラクターにナルサスという軍師がいる。この作品は中世ペルシア世界をもとに描かれており、仮にイスラムよりに近い発音にするとナルサスはナルサフになってしまうという。しかし、田中はあくまで語感を重視してナルサスとした。軍師ナルサフでは間が抜けて見える、ということだ。

③やはり田中芳樹で『長江有情』だが、彼は中国に旅行した際、中国人ガイドに中国人の名前をどう読むべきか質問している。その答えは「中国語といっても地方によって発音は異なるので、その地方地方の発音で呼ばれている。したがって日本人は日本の発音で読めばよい」というものだ。曹操は「そうそう」で、「ツァオツァオ」でなくともよいのだ。


 さて、以上3点を参考に考えると、Ariochの訳はそもそも①のような判断に迷うケースでこれを「アリオッチ」と訳すか「アリオッホ」とするかは訳者のさじ加減一つに委ねられる。結果として訳者は後者を選択したに過ぎない。
 しかし、読者は②の理由を重視する。「アリオッホ」よりも「アリオッチ」のほうが響き的にかっこいいのではないかと。
 ③の観点に立つならば、Ariochをそのまま日本風に読んで「アリオッチ」にすればよい。しかし、訳者はこれを「アリオッホ」と日本人に馴染みのある英語読みでなくドイツ語読みにした。そしてAriochの名前を呼ぶの際に主人公エルリックと彼の転生者のフォン・ベック(=ドイツ人)の意識が融合していたからだというのを理由の一つにあげている。
 そもそも活字である以上本来的な発音はわかりかねる。結局は①の観点に立って各自で判断するしかない。そしてこの場合判断するのは訳者なのだ。
 

 話は逸れるが固有名詞の発音に関しては一つ興味深い点が見られる。活字の翻訳ではなく、国際情勢の場面でだ。金日成を「キムイルソン」でなく「キンニッセイ」と呼ぶ政治家がいる。これは③の視点に立ったわけではないが結果的に人名を日本の発音に即して呼んだという意味で③のケースに似ている。しかし、この場合「キンニッセイ」と呼んだ者の偏狭さを感じさせる。というのも、北朝鮮のニュースでは小泉純一郎を日本の読み方どおり「こいずみじゅんいちろう」と呼んでいるのだから。これが向こうの発音で呼ばれたら(なんと読むのかは知らん)、我々ははぁ?と思わないだろうか。この点に関しては日本のほうが懐がせまいように思う。


 閑話休題。かように固有名詞の異国語への翻訳は難しい。そういうことなのだが、これは翻訳に限らないという話がある。筒井康隆の小説には奇怪な名前をした登場人物が多く出てくるのだが、なんと呼んでよいのかわからないケースがある。読者からそういった質問を受けた筒井の返答は「字面で選んでいるので読み方など意識していない」というものだったそうだ。なるほど、この問題はそもそも翻訳の仕方というよりは、本に書かれた活字と声に出して発音する言葉の違いというのが根本にあるのかもしれない。