エリザベス・コストヴァ『ヒストリアンⅡ』

ヒストリアン・II

ヒストリアン・II

 『ヒストリアン』はドラキュラ譚、それも非常に現代的なドラキュラ譚であるといえる。ドラキュラの物語とはそもそも串刺し公ブラド・ツェペシュという実在の人物を作家的想像力で以って人外の化け物としたブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』に端を発するものだ。ドラキュラのモデルはブラド・ツェペシュである。その際に用いられた想像力は非常に大きなもので、ブラドとドラキュラの関係は小説登場人物とそのそのモデルという程度でしかない。ブラド→ドラキュラという変貌を遂げるには大きくジャンプする必要がある。したがって『吸血鬼ドラキュラ』のドラキュラをその物語上であっても歴史的に位置づける事は出来ない。ドラキュラはあくまで怪奇小説での存在であり、歴史小説の登場人物ではない。
 しかし『ヒストリアン』ではブラド=ドラキュラという結びつきを重視し、ドラキュラを歴史小説の登場人物に近づけようとしている*1
 そういった流れで見た場合、ブラド=ドラキュラの存在していた地域が問題となってくる。彼の祖国は東欧だ。そして『ヒストリアン』の舞台となる年代は自由主義(資本主義)と共産主義による東西対立真っ只中の20世紀なかばだ。当然、東欧諸国は「鉄のカーテン」に包まれており、主人公の属す西側諸国の人間にとっては謎の多い神秘で不気味な国だ。「歴史家」たちは東欧諸国にもぐりこむわけだが、この東欧諸国とドラキュラそのものが「謎に包まれた存在」として一致している。すなわち東欧諸国を探ることこそドラキュラ探索へとつながっているのだ。このあたりが現代的なドラキュラ譚という所以である。
 個人的にはドラキュラ譚はこてこてのゴシック・ホラーが一番似合うと思うのだが、冒険歴史小説的なドラキュラ物語もありだとは思う。


 ちなみに、この「ドラキュラ」という存在は数あるモンスターの中でもずば抜けて凶悪な存在だと思う。それは単純に血を吸うという行為が生理的嫌悪感を催すというものではなく、キリスト教文化との関わりにおいてだ。
 吸血鬼に血を吸われ、自らも吸血鬼になった者は心臓に杭を打ち込まれることによってようやく死ぬことが出来る。神の奇蹟によって助かるという事は絶対にない。吸血鬼の弱点に十字架というキリスト教的アイテムがあるが、それは神の万能性を示すものではない。神の力を現すアイテムたる十字架でさえ吸血鬼化した人間を滅ぼすことが出来ても救う事は出来ない。つまり、吸血鬼に襲われた人間には神の救いすら届かないということになる。この意味で吸血鬼とは神の救いすら超越した究極の悪魔の形として存在しているといえる。
 ……と、理屈付けは出来るのだが所詮私はキリスト教徒ではない。したがって吸血鬼の真の恐怖――彼に襲われたものは神の力も及ばない異形のものへと姿を変えてしまうという恐怖は本能的に理解できない。ということはドラキュラ譚の怖さの本質を理解していないということになってしまう。

*1:あくまで歴史『小説』。史実との間には大きな距離がある。