北森鴻『螢坂』

螢坂

螢坂

 2004年9月購入。3年の放置。美味いビールと粋な肴を出してくれるバー「香菜里屋」で語られる不可思議な出来事を、マスターの工藤が解決する短編シリーズ。恋人を残して戦地に向かった戦場カメラマンが、別れの間際に恋人と見た螢の舞う美しい坂。恋人が螢坂と呼ぶその坂はしかし、十六年ぶりにその地を訪れたカメラマンには再び見つけ出すことはできなかった。螢坂はどこに行ってしまったのか。恋人との美しい思い出、そして別れの際に語られる悲しき真実を描く表題作「螢坂」。ひょんなことから預かることになった猫に関する人情話の裏にあるもうひとつの人情話「猫に恩返し」。宅地開発で立ち退きを迫られた商店街の店主たち。ただ一人頑固に反対していた女店主の店が、十年後の今になって店を閉めることにしたらしい。当事のごたごたを思い返して業腹な思いをする男は、その裏にある愛情に満ちた女の一念を知ることとなる「雪待人」。香菜里屋の常連がらみの小説を書く男。実在の人物を用いて話を作るのには訳があった「双貌」。早逝した叔父愛した「孤拳」と呼ばれる酒。かつて叔父と飲んで以来お目にかかることのなかった幻の酒は実在するのか「孤拳」。
 コンパクトにまとめられた短編5編を収録した作品集で、それぞれ綺麗にまとまった佳品ぞろい。北森作品は長くなればなるほど作品のバランスが微妙になることが多く、逆に本書のように短い作品は実に巧い。特に本書は口当たりがよく、ほどよい上品さを持っており、さながら作品のウリである食欲中枢を刺激する酒肴の描写そのもののようだ。安心して読める1冊。