東野圭吾『さいえんす?』

さいえんす? (角川文庫)

さいえんす? (角川文庫)

 2005年12月購入。3ヶ月の放置。大阪府立大の工学部卒でエンジニアの経験を持つ東野圭吾のエッセイ集。その経歴ゆえ理系作家というレッテルを貼られることがあるが、まさにそのレッテルどおりのタイトルを持つ作品だ。内容も理系がらみの話中心であるのだが、特に専門的な話に偏るわけでもなく、元来が読みやすい文体の使い手であり別段と難しく感じる事はない。
 もちろん、サイエンスがらみの話だけでもない。「本は誰が作っているのか」で語られる内容は我々読者にとって考えさせられる内容だ。本を作るためには本を売らなくてはならない。図書館で本を借りる、あるいはブックオフ等で本を買うという行為では出版社には儲けがない。ひいては経営が成り立たなくなり、本が出版されなくなる。

図書館やブックオフを利用することを、まかり間違っても、「賢い生活術だ」と思ってもらいたくない。そう考えることは、出版業界を支えている購買読者たちへの、とんでもない侮辱である。

 書籍には文化的側面があり、そして作家には芸術家としての側面がある。同時に本は経済面から見れば商品であり、作家はその商品を生み出す生産者だ。前者を重視すれば図書館の存在意義や再販制度の存続を声高に主張できる。ところが後者の視点はそれと真っ向からぶつかることとなる。そして、その視点を無視することは出版活動そのものの死活に関わってくる。東野は図書館やブックオフを利用することを「賢い生活術だ」と思うことを購買読者たちへの侮辱だといっているが、作家そのものへの侮辱へもつながる。一読者として作家に敬意を払うには、新刊本できっちり買うべきではないだろうか。

 ……などと優等生的にまとめてみたのだが、この先にもう一つの問題がある。それは「積読」だ。せっかく金を出して本を買っても、作者の魂を注いだ作品に目を通さないで放置したままにするという行為も作家にとっては侮辱ではないだろうか。
 では、作者にとって望ましい読者はどちらか?


①作品をきっちり読んでいるが、もっぱら図書館もしくは古書店で購入
②新刊で買うものの、読まずに積読


 ①は文化的側面で見るとよい読者、②は経済的側面で見るとよい読者といえる。ただし作家を目の前にして「読んでますよ」と言っても「買ってますよ」とは言わない。本は読むもので買うかどうかは別段省みられることはない。だが考えてみるとただ読んでいるからといってお客様ではないし、積読者は顧客であっても読者たりえない。買って読むのが一番よいことであるのはいうまでもないわけだから、私個人としては死に物狂いで、しかも楽しんで読むつもりだ。

 なお、私は単なる本読みなので図書館派やブクオフ派の人たちを非難するつもりはありません。念のため。