ミステリマガジン3月号「誌上討論 現代本格の行方」

 一応、「ミステリマガジン」の二階堂・笠井両氏の記事を基にしたエントリになっているが、このところ賑やかだったいわゆる東野圭吾『容疑者Xの献身』に関する本格論議を野次馬的に取り上げてみる。
 二階堂黎人が自身のHPでの発言が発端となっている。氏曰く『容疑者X〜』は自分の本格定義に当てはめると本格ではない。その非本格作品が「本ミス」のような本格ミステリを対象としたランキングで1位になるのはおかしい。同作品を1位に推した評論家はなぜ1位に推したのかその理由として自身の本格定義を示すべきだ、というものだ。*1
 web上では二階堂叩き(といって大袈裟であれば、氏に対する反論)が多く見られるが、そこにはおおまかに二つの視点が見られる。
 一つは、氏の意見そのものに対するもので、その中には『容疑者X〜』は本格だ、というものから氏の本格定義がきわめて狭いものであるといったもの等が目立つ。
 もう一つは氏の態度そのものに関するもので、氏の言葉を借りるなら「儒教的な行議論」に関わるものだ。ここら辺は確かに議論の本質に関係ない部分だが多数の人間の反発を受けても仕方のないところである。私自身も議論を成立させる上での「行議論」は必要だと思うのだが、ここでは措くことにする。


 で、本題だが、定義に関するくだりである。二階堂の「本格を定義せよ」という発言だ。これに対して真っ向から自身の定義を示した者は(私の知る限りでは)存在しない。だが、興味深い指摘もある。
 まずは二階堂の本格定義だが、

「<本格推理小説>とは、手がかりと伏線、証拠を基に論理的に解決される謎解き及び犯人当て小説である」

 とあってこの定義に当てはまらないから『容疑者X〜』は本格でないと断じている。

 それに対して「『容疑者Xの献身』は本格でないとする議論には、手掛かりの見落としなど、基本的な誤読がある」と反論し、同作品を手がかりと伏線、証拠を基に論理的に解決される作品、すなわち本格だとしたのが巽昌章だ。
 「ミステリマガジン3月号」誌上の笠井潔も同様で、「筆者(=笠井、引用者注)は一〇九頁の時点で真相の八割以上を「論理」的に特定しえた」として同作品を詳細に検討し、本格と位置づけた。

 二階堂の本格定義そのものは特に問題にすべきものではないだろう。むしろ、それが定義といわれれば納得のいく範囲のものだ。本格読みであれば誰しも論理性を重視するだろうし、その論理を構築する上での手がかりと伏線、証拠は必要だと考えるはずだ。笠井は定義そのものに関しては明言していないが、二階堂定義と大差ない範囲内に本格を位置づけていると想像される。

 問題はその先にある。二階堂は「手がかりと伏線、証拠を基に論理的に解決される」作品でないから『容疑者X〜』を非本格作品だと断定し、笠井は同作品を「「論理」的に特定しえ」る本格作品だとしている。

 つまり、同じ(ような)定義を用いても、結論が異なってしまうのである。なぜこのような現象が起きるのか。結局定義づけしてもそれを用いて対象が定義の枠内にあるかどうか判断するのは判断者次第であるからだ。そしてそれは判断者の読解力、先入観などで大きく左右されることとなる。
 ここで二通りの見解が出てくる。まずは、だから定義づけは無意味だというもの。もうひとつはそれならば自身の定義に基づいて明確に判断できるように判断者(ここでは評論家)のレベルを高めるべきだ、というもの。
 ただ、どちらにしろ結局個々の作品のジャンル分けは定義しようがしまいがその人次第ということになってしまうように思える。


 さて、ここから先は余談。笠井の記事をものすごく意地の悪い解釈で読んでみたものだ。意地の悪いものであるのだから読んで不愉快に思う人もいると思うので、それでも読みたいというもの好きな方のみ続きをどうぞ。


 笠井は『容疑者X〜』をただ「本格」ではなく、「難易度の低い本格」だとい言っている。

この作品は一応のところ本格探偵小説だが、本格としての難易度が高いわけではない。適正に判断して初心者向けの水準だろう。

 ただ、「本格」とせずにことさらに「難易度の低い」とか「初心者向け」などと形容してみせているのは、そのような「難易度の低い」「初心者向け」の本格をきっちりと読み解けなかった二階堂黎人を初心者レベルにも至っていない本格読みだと遠まわしに揶揄しているのではないか。
 さらにいうなら、それをはっきりと明言しないのは二階堂が些事であると切り捨てた「儒教的な行議論」に則って下品な罵倒・嘲笑を大っぴらにしないでおき、そのことによって議論に行議論は必要なんだよと示したのではないだろうか。

*1:ここで氏が言っているのは「本格」としての『容疑者X〜』であって、時折見られる東野の直木賞受賞と関連付けての二階堂を叩く行為はまるっきりな見当違いである。