村上春樹『東京奇譚集』

東京奇譚集

東京奇譚集

 ミもフタもない言い方をしてしまえば「いつもの村上春樹ワールド」ということになってしまう今回の短編集。どこら辺が「いつもの」なのかというと、要するに主人公は自分にとって何らかの大切なものを「喪失」しており、その「喪失」したものを「探索」する物語であるところだ。
 「偶然の旅人」は主人公がゲイであることを告白することによって家族関係がギクシャクし、姉と疎遠(=喪失)になってしまう。その姉と再会し、わだかまりを解いていく話なのだが、それを「偶然」をキーワードにまとめあげている。
 「ハナレイ・ベイ」は鮫に食い殺された息子(=喪失)を偲んで毎年その海へ訪れる母の話。そこで息子と同じようなサーフィンをやっている青年と出会うのだが、べたべたな擬似親子関係として描かず適度な距離を保った間柄としているところはいかにも春樹的。
 「どこであれそれが見つかりそうな場所で」ではなにやら漠然とした大切な何かを捜し求める探偵の話。探偵の本来の任務はある女性の失踪(=喪失)した旦那を捜し求めることで、これは探偵の努力と関係のないところで解決する。そして見つかったのはいいものの、旦那はそれがまるで代償であるかのように二十日分の記憶を「喪失」している。「喪失」と「探索」の関係がなにやら浮かんできそうな感がある(と、結論らしきものは出さずに曖昧に逃げてみる)。
 「日々移動する腎臓の形をした石」は小説家が素性の知れない女性に出会って恋人関係になるが、その女性が突如姿を消す(=喪失)話。「日々移動する腎臓の形をした石」とは小説家の書く作品のことで、その作品ではタイトル通り腎臓の形をした石が日々移動する。結局ひょんなことから女性の身元がわかるのだが、会うすべはない。それでも彼女を「喪失」したことを受け入れて彼は前向きに生きる。そしてそれと対照的に作中の「腎臓の形をした石」はなくなってしまう。ここにもなんらかの「喪失」と「探索」の関係が浮かんできそう。
 「品川猿」は喪失という点では一番あからさまで、主人公の女性は自分の名前を猿に盗まれる(=喪失)。彼女はそのことによって自分の名前を思い出せなくなるが、猿を捕まえることによってそんな障害は消えた。ただ、その過程で自分の嫌な面、自分の周囲における苦い真実を知ることになる。が、それでも彼女はそれを受け入れ前向きに生きていこうとする。

 人は生きていくうえで様々な大切なものを「喪失」することを避けては通れない。その上でどう生きるか。「喪失」したものを「探索」していく。その結果「喪失」したものは得られないかもしれないし、再び手に入れたとしてもその過程で傷つくことだって考えられる。それでも人は「探索」する。
 そんな物語が村上春樹のリリックな文体で語られる。「いつもの村上春樹ワールド」つまりはそういうことで、それを十分に堪能した。